①
「身は動いても、心は静を貴ぶ。気は収飲すべし、神はのびのびとする。心は令を為す、氣は旗を為す、神
は主帥を為す、身は駆使を為す。時々刻々心に止めて、初めて何かを得る。先ず心に在り、その後身に在る。
身に在る時は、覚えずに手舞い、足踊る。これいわゆる″一気呵成″、″己を捨てて人に従う″、″導き入れて
空に落ちさせる″、″四両で千斤を弾きのける″こと。
②
知るべしは、動になれば動にならぎるがなく、静になれば静にならざるがない。動をなお静と見、静をな
お動と見る。内は精神を固め、外は安逸を示す。須らく人に従い、己の勝手に任せない。人に従えば機転が
きく、己の勝手に任せば滞る。気を尊ぶ者は力無し、気を養う者は純剛である。
③彼が動かねば、己動かず、彼微動すれば、己先に動く。己をもって人に依るので、須らく己を知るべし、
そうして初めて転ずると同時に受けることができる。己をもって人を粘するので、須らく人を知るべし、そ
うして初めて遅れもせず、先に出ることもしない。
④
精神をふるいおこせば、鈍重の虞れ無し、依るも砧するも敏捷について行けば、初めて空に落ちさせるの
妙が得られる。往復は須らく陰陽に分けるべし、進退は須らく転合あるべし。機は己より発し、力は人から
借りる。發勁は須らく上下あい随すべし、そうして初めて行くところ敵無し。立身は須らく中正・不偏であ
るべし、そうして始めて八面を支禅できる。静なること山岳の如し、動なること江河の如し。歩の運びは渕
に臨むが如し、勁の運びは糸を牽くが如し。勁を蓄えるは弓を引くが如し、勁を発するは矢を放つが如し。
⑤
気の運行は九曲珠の如しであるべし、至らぎる微をなくすべし。勁の運びは″百煉鋼″の如し、そうすれ
ばどんな堅いものも壊せないことがあろうか? 形は兎を捕らえる鷹の如し、精神は鼠を捕らえる猫の如し。
曲の中に直を求め、蓄えてのち発する。収はすなわち放であり、連なっていて断たれない。極柔軟になって、
しかる後極堅剛になれる。粘することも依ることもできて、しかる後霊活になれる。気を直養することによ
って害が無し、勁を曲蓄することによって余りある。漸次来るものに順応できるように至る。これもまた止
むを知ることによって得られるものかな!」
解説
① 大極拳とは何か?・その拳法としての本質はどこに在るのか? よく″一気呵成″、″己を捨てて人に従う″、″導き入れて空に落ちさせ″、″四両で千斤を弾きのける″のようなことが言われていますが、そんなことができるようになる為には、どんな練習をすればいいのか? この問題に答えるのが武氏のこの《太極拳解》です。ですから武氏が、文の冒頭から最も根本的な原則について語っているのです。すなわち、身体が色々な動作を完成しながら動いていても、心は常に安静の状態を保つのが一番重要であるということです。
そうしますと氣がおのずと収欽して丹田に沈んでいき、のびのびとした精神状態になります。 一つ一つの動
作を完成するに当たっては、やはり先ずは″心″から、意識から始めるのです。心が命令を出し、そして氣
が軍旗の役割を果たして前進の方向を示し、神、まなざしが具体的に指揮を取る主将になって、腰が駆使さ
れて一つ一つの動作を完成するのです。この順序を時々刻々心に止めて真剣に練習を続けることによって、
初めて何かを成就できるのです。これらを総じて言うと、先ずは心に在り、その後身に在ることです。身に
在る時は、言わば、覚えず手舞い、足踊るというような感じです。こうして漸次上のようなことができるよ
うになるのです。
② 是非とも知っておかなければならないのは、動と静の関係です。身体の動と静はいかなる場合において
も個別的、局部的なものであってはならないのです。身体が動の状態になる時も、静の状態になる時も、身
体全体が一つになってその時の動と静に参加しなければなりません。両手、両足、腰、頭、まなざしまで、
みんなその時その時の一つの目的を実現するために努めなければなりません。つまり、動けば動かないとこ
ろがなく、静になれば静ならぎるところがないようにするのです、前述のように、動と静は一対の矛盾を成
すものですから、動をなお静と見、静をなお動と見るのです。内は精神を固め、心を落ち着かせて精神を集
中しなければなりませんが、外見は、顔の表情は安逸を示さなければなりません。必ず人に従うようにして、
己の勝手な、主観的な謀略、技などに任せるのではありません。人に従えば機転がきくのです、己の勝手な
考え方によって行動すると通じません。
大極拳が護身術として応用される場合も、自分の意はすべて精神方面にあるべきであって、気にあっては
なりません。つまり、一般に言う″運気″(″気を運ぶ″、意識的に気を身体の一部分に送ってその局部の筋肉
を緊張させたり、膨らませたりすること)をやりません。というのは、そういう″運気″が逆に自分の動作
の機敏性に不利な影響を与えるからです。自分が大変力があるように感じますが、相手にはそんなに強く作
用しないのです。ですから、 ここでは、この意味で、気を尊ぶ者、ともすれば気を使う者は、実はそんなに
大きい力を出せないのだ、と言い、気を養う者こそ、故意に気を使わなくて、常にゆったりとした心情で気
を養う人こそ、ただ心で、意で身体を動かしている人こそ、その動作から生まれる力は純然たる剛になれる
と言っているのです。孟子の言葉に″吾善く吾が浩然の気を養う″があります。ここで言う″気を養う″は
正にこのことを言っていると思います。浩然は広大で果てしない有り様です。さっぱりとした、のびのびと
した、果てしなく広大な心境を養うことによって真気が養われ、このような″浩然の気″の持ち主の出す力
こそが純剛なのです。
③ 彼が動かなければ、自分も動きません。先手を打ちません。不意打ちはしません。しかし、彼が攻撃の
目的で微動でもすれば、己が(心の働きで動作が自然にでるようになっているので)先に動くことになりま
す。意識の速度は何よりも速いから。
己が進んで人に依るので、先ずは自分(の可能性、能力、置かれた状態、結果の見通しなど)を知らなけ
ればなりません。そうして初めて相手を受けながら自分が順になるように転ずることができます。また、己
が進んで相手を砧するので、必ず受ける時の感覚を通して相手(の力の性質、大小、方向など)を即時に察
知しなければなりません。これができて初めて自分の動作が遅れもせず、先を争うような動作をすることも
ないようになれるのです。
④ 精神をふるいおこせば、身体が自ずと引き締まるので、当然、のろくも、鈍くも、重くもなくなります。
依ることも、補することも敏捷に転換しながらついて行けるようになると、初めて相手を″空に落ちさせる″
ことの何とも言えない″よさ″がわかるのです。往復も進退も、要するに身体のすべての動作は必ず陰陽に
分け、転合。転換があるようにしなければなりません。時機を把握する、機に乗ずることは自分で決めるの
ですが、力は相手のものを利用し、すなわち相手から借りなければなりません。發勁する時は必ず上下あい
随して発しなければなりません。そうして初めて勇往邁進することができるのです。身体の在り方は常に中
正・不偏を保たなければなりません。そうして初めて四方八方を支えることができるようになります。静の
状態に入ると、もう山岳・高い山のように魏然として微動もしない、動の状態に入ると、もう大きい川のよ
うに沿々と流れて、何物にも遮られることなく、止まることもありません。歩を運ぶ、歩が動く時、その運
び方は自分が深い渕に臨んでいる時(抜き足、差し足、忍び足?)のようにしなければなりません。勁の運
びは糸をひく時のように平均した力でひくのです、突然強くなったり、弱くなったりしません。力を蓄える
場合は弓を引き絞るように全身の力を動員しなければなりませんが、勁を発する場合は矢を放つ時のような
感じですればいいのです。
⑤ 気の運行は九曲珠のようで、どんなところも通れるから、至らぎるところがない。勁の運びは″百煉鋼″
のようですから、これで壊せない堅いものがあるでしょうか? ″百煉鋼″は精錬した、純度の高い銑鉄のこ
とです。中国の成語に″千錘百錬″、″百錬成鋼″があります。錘はかなづち又はそれでたたくこと、鍛える
ことです。煉は鉱物を高温で熔かして精錬することです。百回溶かして千回たたき鍛えるという意味から、
鍛えに鍛え、練りに練ることです。″百錬成鋼″は長期間の鍛と煉を経て鍛えられて初めて純度の高い銑鉄に
なれるという意味です。そういう銑鉄は、時計の発条に使われる材料のようなもので、非常に高い硬度を持
つと同時に非常に高い柔軟度を持っているのです。ですから、その破壊力も高いです。
形は地上にいる兎を捕らえようとする空の鷹のように、精神、まなざしは鼠を捕らえようとする猫のよう
に、静であるけれども、その一意専心の静の中に動の″機″がいっぱい合まれていて、次の瞬間には迅速果
敢な動作に移れるようになっています。曲線を行く動作を通して直線を求め、勁を蓄えてから発するのです。
中に″収″することはすなわち外に″放″することです。これは二つのもののようで、 一つです。動作がい
つも連なっていて断たないようにするのです。極柔軟になって、しかる後極堅剛になれるのです。猫するこ
とも依ることもできて、しかる後敏捷・活発になれるのです。気は素直に、きれいな心で養うので、絶対に
害をなすことはありません。勁は曲線動作を通して蓄えるので、常に余裕を持つことができるのです。この
ように日々の練習を積み重ねて行けば、だんだん来るものに随時に順応できるようなレベルに達します。し
かし、これもまた″止むを知る″
、ことに当たって常に適当な″度″を掌握することのできる能力を持つこと
によって初めて得られるものでしょう!・この最後の一句は大極拳の修練においても、我々の人生観、日常
生活の各方面においても、非常に重要な戒めであるとしみじみ感ずるものです。