まず相手に足裏からすべて引き抜かれる感じで引かれる
これは全身が一つになる練習です。
なぜ?わざわざ崩されるようにするかというと、全身が一つにならないと、体を使えないからです。
崩されることは、相手を崩すことであり、自分が不安定になることは相手が不安定になることです。
つまりこれらが、聴勁であり、相手に従いながら相手の力を借りて相手は自分の不安定さと重みで崩れるのです。
極端な表現をすれば、自分が崩れながら相手にしがみつき相手を不安定にする。
また、自分が揺らぎの中で安定を保つ練習でもあります。
何もしないで立っているということは、揺らぎの中で安定していることです。
馬張勲老師の表現では、「頭が吊り下げられ足は水面に浮いている蓮の葉の上に乗っている」
ジャイロは、吊り下げられている頭と地面に下ろした中心点なのではないかと思います。
体の中のジャイロが絶えず無意識でずれを修正している
推手はこの無意識で立たせているジャイロにアプローチして崩すことです。
このことがわかったのは、馬張勲老師の「太極拳を語る」の次の箇所を読んだ時です。
馬張勲の「太極拳を語る」の中のここです。p228
<姚継祖先生との会話から>
彼は私にいくつかのことを教えてくれた、とても肝心のことだった。例えば、何を「立如平准」(平准のごとく立つ)というか、今皆、秤(はかり)つまり「天秤」と解釈されている。彼は違うと言う。彼が思うにこれは「水平儀」で、それを「平准」という。彼はそのとき一枚の絵を描いてくれた。これをどちらに回転させても、その水玉は中間にある。それは農村にある、ああいう粗末な水平儀とは違う。農村のは木片に一本の溝を掘って水を流し込んだ、ただそれだけのものだ。これは十字形で360度どちらに回しても、水の玉は真ん中にある。今は天秤と解釈されていてそこには一定の道理はあるが、実際は「平准」で、こういうものを指している。この解釈は、疑いなくより正確で正しい。
<ここまで>
このあとのページに馬張勲老師の絵が出てくるのだが、この絵のことを誰に聞いてもわからず、「中国古代の水准器」でググっても出てこない。出てくるのは建築関係で使う水平を図る「水準器」だ。何度もここを読んで、なんとなくわかったことは「中心に集まり中心から広がる感じ」ということ。それからしばらくして、ある動画見て「はっ!と」思った。それは船に積んだジャイロスコープの映像だった。波の荒い海で、ジャイロを積んだ船がほとんど揺れない。「水准器」がジャイロスコープだとわかると、この「姚継祖先生」が言われていることが良く分かる。我々が立っていることは、我々に備わったジャイロによるものなのだ。「立如平准」なのだ。このジャイロスコープは航空機や宇宙船などの姿勢制御など広く使われている。
馬張勲老師の「水面に浮いていいる蓮の葉に乗っている」の例えは、その不安定さが相手のジャイロに接触して乱環境に導き自分はこのジャイロの働きにより揺らぎながら安定している。相手は自分の不安定さで自分の重さで崩れ落ちる ・・・こちらはそれを支えコントロールしている
太極拳を語るから 古代水平儀