解曰― 先在心,後在身。腹継,氣敵入骨,神舒体静,刻々在心。切記一動無有不動,一静無有不静。
視静猶動,視動猶静。動牽往来氣貼背,数入脊骨。要静,内固精神,外示安逸。邁歩如猫行,運勁如抽絲。
全身意在蓄神,不在気,在気則滞。尚氣者無力,養氣者純剛。氣若車輪,腰如車軸。
又日――彼不動,己不動…彼微動,己先動。似霧非髯,将展未展,勁断意不断。
訳文
「解して曰く――先ず心に在り、その後身に在る。腹部は鬆静、気は収欽して骨に入る。神は舒の状態に、
体は静を保ち、時時刻々心に留意する。是非覚えるべきは、動になれば動にならぎるがなく、静になれば静
にならぎるがない。動をなお静と見、静をなお動と見る。静であるべし、内は精神を固め、外は安逸を示す。
歩の運びは猫が行くが如し、勁の運びは糸を引くが如し。全身の意は神を蓄えるに在り、気に在らず、気に
あれば滞る。気を尊ぶ者は力無し、気を養う者は純剛である。気は車輪の如し、腰は車の車軸の如し。
又曰く――彼が動かねば、己動かず、彼微動すれば、己先に動く。鬆であるようで鬆ではなく、伸ばして
いるようで伸ばしていない。勁は断ち切っても意は断ち切らない。」
解説
① ご覧の通り、この文の多くの句は前の文に出た句の重複です。重複の句については改めて解説する必要
がありませんから、ここでは新しく出て来た若千の言葉についてだけ少し説明を加えます。
″神は舒″
――舒は″のばす、ひろげる″意味です。中国語で″舒心″と言えば″気が楽である、心が落ち
ついてのんびりしている″ことです。全句の意味は、 つまり、精神状態も顔の表情もゆったりと、伸び伸び
としていて、常に安静した心と明晰な頭脳を保ち、冷静に状況判断をすることのできる情勢を指しているの
です。
″歩の運びは猫が行くが如し″
――前の文では″歩の運びは渕に臨むが如し″とありましたが、実質的には
ここの″猫が行くが如し″と同じことを言っているのです。すなわち、足を運ぶ時は猫の歩を思い出させる
ようにしなければなりません。 つまり、足を持ち上げる動作も足を降ろす動作も体の状態、体の重心に影響
しないようにするのです。これは大極拳の足の運び方の一つの特色です。ここで注意すべきは、猫の歩の特
色は軽さだけではないことです。軽さの中に敏捷、柔軟、自信、堅実が含まれているのです。
″気は車輪の如し、腰は車の車軸の如し″
――気は車輪のようでなければなりません。腰は軸の役割を果たすのです。車輪は軸を巡ってどちらにも自由に動けるようになっていなければなりません。そのためには軸がいつも安定していて、しっかりしていなければなりません。これだけ守られれば、後は全て自然に任せばいいのです。私たちが車を押し進める時は、私たちの意、注意力はただ車の行くべき方向にだけあるのであって、誰も車輪がどういうふうに動いているかには注意しません。軸にも注意しません。逆に、これらに注意しますと、誰もが経験したことがあると思いますが、車が思う方向に動かない場合が多いのです。大極拳での気と意の関係はこういう所からヒントを得なければなりません。だから、先生が常に″腰を正す、腰を立てる、腰をしっかりする″ことを強調しているのです。このことを、普通は″上下一線、左右に回転″と言っているのです。
″鬆であるようで鬆ではなく、伸ばしているようで伸ばしていない″
――これは、基本的には、両腕のあり方についての説明です。すなわち、両腕は常に緩んでいるけれども、完全に緩んでいない、伸ばしているけれども、ぴんと伸ばしてはいない状態を保たなければなりません。
つまり、あらゆる意味において″あそび″を持つことです。これは長い間の実践によって自分の身体で感じて覚えるものです。
″勁は断ち切っても意は断ち切らない″
――どんな″勁″にも、当然、その″限度″というものがあります。
限度に達しますとその″勁″が切れます。しかし、そういう時でもその動作の意が断ち切れないように、
つまり意識の中でその動作が続けられているように努めなければなりません、という意味です。