蜂屋 邦夫. 老子 (岩波文庫)より抜粋
老子第40章 反者道之動 弱者道之用
前に向かって進むのではなく、後戻りして元に帰っていくのが、「道」の動きかたである。強くたくましいのではなく、弱弱しいのが、「道」の働き方である
第四 十 章 根元 に 回帰 し て いく のが 道 の 運動 で あり、 柔弱 なのが 道 の 作用 で ある。 世の中 の 物 は 形 の ある もの から 生まれ、 形 の ある もの は 形 の ない もの から 生まれる。 「反」 とは 道 の 「動」、「 弱」 とは 道 の「 用」。天下 の 物 は 有 より 生じ、 有 は 無 より 生ず。
植物が硬いアスファルトから芽を出せるのは、弱い力だからで、強い力であったなら、植物自体がその「力」で折れてしまう
我々は「弱い力」に目が行きがちだが、その弱い力が「持続する」ということを忘れがちだ。一滴の水滴では石を穿つことができない。何十年も続いているから穿つことができる
太極拳でも弱い力で押したり引いたりするが、たいがいは1度で終わってしまう。
だから相手を崩すまでいかない。弱い力で押し続けることだ。この弱い力で押そうとすると、なぜか全身が緩み足に降りる。力で押そうとするとこの力はなくなる。重力による落下と、それを落ちないようにする力で体がわずかに伸びる。輪ゴムを軽く引っ張った感じだ。引っ張りすぎてもダメ、たるみすぎてもダメ。かかと側に乗るとたるんでしまう。潮田先生がいつも言うように円錐で立つことでこの「うっすら」とした伸びが感じられ、「力む」ことなく押すことができる。そして、にここに「気」の存在を感じることができる。何人かに抑えてもらって、前に行こうとする。止めてる人を何とかしようとすると、抵抗にあい「力む」。ただ前に行く事だけ考えて動くとすり抜けるように動くことができる。このようなものが「気」だ。また、誰かに腕を抑えてもらって地面に落ちているものを拾うとしたとき、抑えられた手を動かそうとするとなかなかうまくいかない。ただ、拾おうとだけ考えて動くと何の問題もなく拾うことができる。「気」は「意識」によって導かれ、「血液」は気によって導かれる。だから、このような練習のあと、手に血液がうっ血した感がある。原理通りだ。そして落ちる力を意識することでゆるい力の持続ができ、相手はきずかない。なぜ気づかないかというと、同じ力が持続すると無いように感じるからだ。靴下や下着を着た時はつけた感があるが、時間がたつとそんな感じは消えてしまう。相手はいつの間にか不利な状態になっている。